それを知ったのは、十になったばかりのことだった―。








それは、ある日いきなり、自分の前に現れた。
銀の髪を持ったその鬼は、まるで回りなど眼中に無いように(実際そうだったのだろう、奴はそういう奴だった)大きなあくびを一つし、挨拶もせずに一番後ろの席に陣取った。最初は呆気にとられていたものの、何故だか無性に腹立たしくて(挨拶なしというのが気に入らない、礼儀は重んじるべきだと今でも思う)むっとしながら後ろを振り返るが、そいつは数多の好奇の視線も周囲のざわめきも遮断して、瞼を閉じ、寝ているかのように見えた。
松陽先生はそんな奴に、しょうがないですね、と苦笑しただけで、手にした教科書の中から徒然草を読み始める。慌てて意識を教科書と、それを読む先生の声に向けるが、それでも気になって後ろをちらちら覗いてしまう。
それは高杉も同じだったようで、隣で眉間に皺を寄せながらも(恐らく松陽先生へのあの態度が、高杉の奴は気に入らなかったに違いない。あれは本当に松陽先生が大好きだから)後ろの銀色を盗み見していた。


「では、第八十二段から始めましょうか。『羅の表紙は、疾く損ずるがわびしきと人の言ひしに、頓阿が、羅は上下はつれ、螺鈿の軸は貝落ちて後こそいみじけれと申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか』・・・これはつまり、『本の表紙は薄い絹でできているから、すぐに壊れてしまうので大層困る』と誰かが言ったので頓阿が『薄い絹の表紙は上下がぼろぼろになって、巻物は軸の貝の装飾品がとれて落ちたほうが味がある』と言ったので偉いと思い、思わず見上げてしまった・・・と、なるわけです」


先生の解説を丁寧に写していく。一言一句、聞き逃さない。
自分に学を初めに教えてくれたのは、1冊の本だったが、学び、皆で笑う喜びは目の前の師が教えてくれたものだ。本の中でしか知らなかった知識、実際に肌で感じて、こうして学べるのは師のお陰だ。


「ぼろぼろになるにつれ、そこに二つと無い趣を見出す。心も同じです。心はとても脆いものです、そう、本の表紙なんかよりも、余程。しかし、傷付いて、ぼろぼろになるまで足掻いて、そうして得られるものがある・・・それはとても尊いことで、難しく、辛い。しかし、それを凌ぐほどに、傷付き痛みに耐えながら生きようとする心は美しいのです」

「先生、」

「なにかな?小太郎」

「例えば、その心はどんなものなのですか?どういった人たちが持つものなのでしょう」

手を上げて訊ねた桂に、松陽はくすり、と微笑んで、いい質問ですね!そう、心の美しさはこれから君達が育んでいかなければいけない物の一つ・・・実際にその美しさを知りたいのなら小太郎、銀時の傍に居ればきっとわかりますよ、と嬉しそうに言って、では今日はここまで授業を終わります起立礼、教室を後にした。
桂は意味が解らなかった。何故あんな奴の傍にいて、松陽先生の言う『尊く美しい心』がわかるというのか。しかし、師が自分に嘘を教えたことなど無い。とりあえず、これから供に学ぶ仲間であるし、その内にわかるのかもしれないと、教科書を整え、鞄にしまい、銀髪の鬼の方へと足を向けた。
鬼の所に行くまでに、高杉がこちらを睨んできた。あんな奴放っておけよ、言外にそういっている。しかし、これからのコミュニケーションを円滑に進めるためにも、協調性に長ける自分が動くのが一番良いことだとわかっていたし、何より松陽先生の言った意味が知りたかったのだ。
眠りに落ちている鬼の方をとんとん、と叩いて起こそうとする。が、手が肩に触れる前に鬼は、バッとその手を弾いて刀を突き出してきた。高杉が背後で息を呑むのがわかった、自身も冷たいものが一気に背筋を這い上がる。一歩、あともう一歩前に出ていたら、首が飛んでいただろう。しかし、危ない!と怒鳴る周りの声程にこの鬼が危険だと思えないのは、刀を抜いた刹那の瞬間、鬼のあまりにも怯えきった目を見てしまったからだろうか。そう、鬼は怯えていた。伸ばされた手に、自身に触れるものへ、圧倒的な恐怖を覚えていた。この鬼は優しい、桂は思った。何故なら、刀を抜いた鬼の方が、泣きそうに見えたから。

「怪我はしてない、大丈夫だ。俺は桂小太郎という、お前は坂田銀時だったな。何か解らないことがあればすぐに聞くといい、この塾のものは皆自己中心的な奴らが多いが、悪い奴らじゃない。・・・・怯えなくても、いい」

桂は、再度手を差し出した。今度は起こすためではない。ただ、無性に手を繋ぎたかっただけだ。そんな桂に呆気に取られている鬼は、悪かった、と一言謝っておずおずと差し出された手を握り返した。見上げてくる、戸惑いの色が見える瞳を見つめ返し、桂は微笑みながら、よろしく、と挨拶をし、一緒に帰らないかと帰宅の誘いを申し出た。鬼は、いや、銀時は、変な奴、と呟いてて、途中までならいいぜ、と桂がこれまで見たこともない程の綺麗な笑顔で誘いに応じたのだった。その時、胸に灯った幽かな灯火の名前を、桂が知ることになるのは、随分先の話である。


















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